家康に届かなかった北条父子の「釈明」
史記から読む徳川家康㊲
なお、家康の上洛中に北条氏政・氏直(うじなお)から釈明や取りなしを求める書状が駿府(すんぷ)に届けられていたが、不在の家康が手にすることはなかった。仮に上洛前に家康が書状を受け取っていたとしても、状況に変わりはなかったものと思われる。
また、同3日に秀吉の弟である秀長(ひでなが)が病に倒れ、興福寺(奈良県奈良市)で治癒の祈祷が始まっている(『多聞院日記』)。
翌1590(天正18)年1月13日、家康の三男である長丸(ちょうまる)が上洛。長丸は聚楽第(じゅらくてい/京都府京都市)で秀吉に謁見し、元服した(『徳川実紀』)。これに伴い、長丸は秀吉の一字を賜り、秀忠(ひでただ)を名乗ることになった(『家忠日記』『晴豊公記』)。秀忠の上洛は、小田原攻めに先立ち、家康から秀吉への人質の意味合いがあった(『東遷基業』)。しかし、秀吉は戦後に秀忠の官位昇進を約束した上で、早々に秀忠を駿府に返している。
なお、秀忠上洛の翌日となる同月14日、家康の正室で、秀吉の妹である旭姫(あさひひめ)が同じ聚楽第で病没した(『当代記』)。
同月21日、家康は駿府に家臣を集めて小田原攻めのための軍議を開催(『家忠日記』『武徳大成記』)。翌月10日に駿府を出発し、同25日に家康は沼津に着陣した(『家忠日記』)。
一方、秀吉は同年3月1日に京都を出発(『御湯殿上日記』『晴豊公記』)。軍勢は3万を超えるものだったという。
家康や織田信雄(おだのぶかつ)に出迎えられた秀吉は、同年4月1日に箱根山に陣を張った(「本願寺文書」)。その後、小田原城近辺に砦を築いている。秀吉が早雲寺(神奈川県箱根町)に本陣を構える同6日頃には、小田原城はすっかり取り囲まれたらしい。小田原に駆けつけた軍勢は、総勢で22万余にまで膨らんだという(『東照宮御実紀』)。
局地戦を除けば、ほぼ睨み合いの状態となった戦局だったが、城の包囲中である同年5月27日には、秀吉は家康の関東移封を決めたようだ(『聞見集』『天正日記』)。翌月9日、北条氏と同盟を結んでいた奥羽(おうう)の伊達政宗(だてまさむね)が臣従すべく小田原に駆けつけ、秀吉に謁見している(『伊達治家記録』)。
同年7月5日、北条家当主の北条氏直が秀吉に投降(『天正日記』『家忠日記』)。秀吉は氏直を助命する一方で、父の氏政と、北条家の外交や軍事を担っていた氏照(うじてる)には切腹を命じた(『家忠日記』『北条五代記』)。その後、氏政・氏照の首は聚楽第でさらされている(『兼見卿記』)。氏直は、300人ばかりの家臣らとともに高野山に追放処分となった(『当代記』『家忠日記』)。秀吉が氏直の命まで取らなかったのは、家康の娘婿だったから、と見る向きもある。
同13日には家康の関東移封が正式に発表された(『朝野旧聞裒藁』)。
同年8月1日、家康は関東に入府(『落穂集』『天正日記』)。家康の旧領は、いったん織田信雄に与えられた(『当代記』『太閤記』)が、信雄は国替えを辞退。怒った秀吉は領地を召し上げ、信雄を流罪とした。
その後、三河(現在の愛知県東部)を田中吉政(たなかよしまさ)、池田輝政(いけだてるまさ)、遠江(とおとうみ/現在の静岡県西部)を山内一豊(やまうちかずとよ)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)、駿河(現在の静岡県東部)を中村一氏(なかむらかずうじ)、甲斐(現在の山梨県)を加藤光泰(かとうみつやす)、信濃(現在の長野県)を仙石秀久(せんごくひさひで)など、家康の旧領は秀吉直系の家臣たちが領することとなった。
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